ただのにっき

ライハのブログ

「ペットは家族です」→わたし「家族の問題を外に持ち出さないでください」

昔からなぜか、

「ペットは家族(同然)です」と言う人が苦手だった。

 

言ってることや心情的な背景は分かるんだけど、この上手く言語化出来ない苦手意識を消し去ることが出来ないまま、今に至った。

 

自分とペットとのこれまでの関係について申しておくと、ペットとして飼ったのは幼い頃のミドリガメくらい。

その時はきちんと管理出来ずに簡単に死なせてしまった。

その他は近所の飼い犬を撫でたり、親戚を訪ねた時に犬を散歩に連れて行った程度。

 

生き物を飼うことについて、親は否定的(倫理的な問題ではなく、経済的負担や手間の部分から)だった。

動物との触れ合いが希薄なまま生きてきたから、「生き物を飼う」ということに、責任感とか倫理観とかが必要以上に高まって、心理的ハードルも高くなっているのかもしれない。

 

そんなこんなしていたら、先日ふいに、この日記のタイトルにある思考が頭に舞い降りてきた。

そう、この苦手意識は、個人の考えを外に持ち出さない(人に押し付けない)で欲しい、っていう気持ちだったんだ、って。

 

あなたがペットをどう思おうが構わない。大事にしているなら良いことだ。

ただ、「その価値観(=ペットは家族)を全員持って然るべき」的な思考をする人が居て、そう思わない私からしてみれば、それが腑に落ちないのだ。

 

ペットであろうと動物は命あるもの。家族のように大事にするべし。

法律上ペットは動産。ペットはあくまで個人の趣味で飼うもので、嗜好に過ぎないだろう。

 

どっちの思考だって間違いではないはずなのに、「命」っていう部分を元に全く関係ない範疇の人まで強請りをかける人を見かける。

そりゃ私だって犬や猫はかわいいし、命は大事にしたいけど、人の善意や良心に訴えかけて我を通すような側面は、ある種の人質・・・いや犬質・猫質のようだと感じる。

 

更に厄介なのが、「自分は命を大事にしている絶対的な正義」と思っていたり、性善説のように「命を大切にしない人なんて、いないよね?!」といった思考が上乗せされている人。

 

そういう思考をされる方が、

「あと〇日でこの子達は保健所で殺処分になってしまいます!!」

的な事をのべつまくなし拡散し続けるのかな、なんてね。

 

保健所で殺処分になることを良い良くないで言えば完全に良くないことだと思う。

外的要因でペットにストレスがかかることも良い良くないで言えば良くないことだと思う。

 

でも待って。

そもそもなんだけど、ペットとして飼う行為自体だって良い良くないという判断基準があったっていいんじゃないの?

 

少なからず自分は、

「ペットを飼うのはとてつもなく責任がかかることだ。だから現状を踏まえると飼うことはできないし、おそらくこれから先も飼うことはないだろう。」と思っている。

それに加えて少し、

「人間の生活圏で共に暮らしていたら、ペットに対して何かしらのストレスが起こりうる事は想定されるんじゃないか。それもあらかじめ理解しておかないといけないんじゃないか。」とも思っている。

それに加えてほんのほんのほんの少しだけ、

「そもそもペットを飼うという行為自体が人のエゴだろう。それで起こる問題なんて私には関係ない。」とも思う。

 

こんなこと書いていたら自分がとんでもないクズのように感じる。

私の知っている範囲でも、ペットとの良好な関係を保ちつつ、関係ない人は巻き込まない飼い主はきちんといるし、おそらくそれが大多数なのだろう。

だけど、物凄く巻き込んでくるタイプの人が居ることも事実で、その人たちが使う言ってしまえば「ズルい論法」をかわすためには、クズな発想それもまたやむなしと、許しを貰えたら嬉しく思う。