表明と我慢
表明
最近なんかこう、表明することが怖くなってきた。
意思や願望、結果や行動、自分が考えていることを全部垂れ流してることに意味はあるのか?
今こうして書いている事は、ある程度思考に則って書いているけど、
特にツイッ夕ーで、意味もない衝動的な気持ちを表明することが怖くなった。
ゆく年くる年で「2017」という数字を見た時、なんだか悲しくなった。
生まれてからこんなに時間が経ってしまった。どんどん若くなくなっていく。
なのにやり直したい事、変えたい事が沢山ある。
そう思ったら、なかなか2017年一発目の呟きを発することが出来なかった。
渋っている数日のうちに、衝動に駆られ、ただ漠然とモヤモヤした鬱憤を呟いていたこれまでの行いは、よろしくないなと思った。
その象徴たるものが、
「にゃー」
「にゃーん(>_<)」
……じゃあスペシフィックな目標や考えを表明出来るのかというと、それもまた怖いのである。
なので今年の目標は表明しない。
言葉には重みがある。
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我慢
「重み」というと、三が日が終わり自宅の体重計に乗ると信じ難い「重み」を示していた。
その時「我慢ならない」というのが、自分の最たる特徴だと気づいた。
意味もなく
「にゃー」とつぶやいたり、
買い置きしたおやつを置かずに食べ尽くしたり。
それらを振り返ると、自分の中に「我慢をする」という概念がハナから存在していなかったのだと思う。
全て衝動的で思考は存在していない。
本能が赴くまま。
けれども考えることってとても疲れる。
にゃーと啼こうがポテチを貪り食おうが、考えてないことなんてない。
そこへ新たに思考を投入すると、しっちゃかめっちゃかになるに決まってる。
だから兎に角システムを構築して、それをなぞればいいだけにしてしまいたい。
考えなくていいものは考えない。
カラダに覚えさせる。
そういう決まりだから、
そういう習慣だから、
こういう仕組みだから、
こういう目標があるから、
……だからこうする(しない)。
それなら我慢してるという意識が薄くなるはず。
そんな感じで、今年は痩せようっと。
(結局目標を表明しちゃう)