ただのにっき

ライハのブログ

海辺には久しく行ってない

注目をされたいわけではないので、ひっそり書きます。

 

今この日記を書いている現在、ツイッタ一上ではとある海岸について話題になっています。

地理的にも意識的にも自分とは縁遠いものではあるのですが、何となく考えてしまう事柄です。

 

初めに申しておきますが、自分はこの件について是非を問うたり、糾弾したり非難したりするような、気持ちを外へ向ける意図はないです。

ただ漠然と感じたこと、私感を書いていきたいと思います。

 

まず状況をざっくり整理すると、以下の通りになりますでしょうか。

①いつの頃か、海岸へ集う人々が生じる

②徐々に口コミやSNSで情報が拡がる。

③近辺の安全対策上、立ち入り?が禁止となるが、黙殺。

④あるSNSアカウントが窮状を拡散・糾弾する。

⑤K 察が現地で見回り

⑥各方面 あらゆる意見が寄せられる

 

この一連の騒動(?)を眺めて感じたのは、

ゲイのコミュニティ内で起こる問題と、ゲイとストレートの社会で生じる摩擦では、観点とすべき事象が異なるのだなあということ。

 

コミュニティ内で起きる問題は、たいてい「美醜」や「モテ非モテ」といったヒエラルキ一的な力関係が原因であって、世間一般の「法」や「規範」とはちょっと違うものに則っているような気がします。

 

だからあの海岸へ行って「楽しいコト」してきた人たちにとって見れば、今回のことはコミュニティ内の僻み・嫉妬を原因として非難している人もいる。

ただ例のSNSアカウント(実態が売れ残りのブスであるかは関係なく)からしてみれば、世間では宜しいとされない内輪の行いが世間一般の目に触れる問題、として捉え(ようとし)ているのだと思うのです。

(ちなみにこの「目に触れる」という言葉は実際に現場を見ているかは問わず、例えばK 察とか自治体、近隣住民に何かしらの影響がある、という意味で。)

 

勿論、「楽しいコトしてきた人たち」の中にも、「本当は世間からはアウトサイダ一なことしてる」って理解しながらひっそりとやってきた人もいるでしょう。

ただ、今回それらの内輪のひっそりした行為が一応公共の場所であるあの海岸で適用されるのかといったら、私はされない、と思うのです。

 

でもあの海岸やそこで「楽しいコト」してきた人、それを写真でアップした人を批判だけしているか、というとそうでもなくて。

正直どこか羨ましい部分もあったし、自分だったら売れ残るだろうし、何より過酷でたどり着けなかったかも・・・

 

まあそれはいいです。汗

 

だけどちょっとアングラだったり、世間から見たらアウトサイダ一だったり、今迄深く責められなかったそういう部分が、内と外の摩擦解消の際に噴出してしまうことや、それらがどんどん規制気味になってしまうことにはどこか不安や寂しさ、もしかしたら息苦しさなんかを感じてしまうかもしれません。

 

そのあたりって本当に難しいです。

自分の中ですら「世間に認めてほしい」と思う一方で、「世間に顔向けできない事もしたい」と思う二面性もある。(念のため言っておきますが顔向けできないことはしてないはずです、ええ。)

また、顔向けできないものは「完全なる内輪」でやれていたらそれでいいのか。

それもまた違うような気もしてきます。

 

そもそもこの海岸に来る人も、元々は小さな「内輪」だったのでしょう。

だけどこんな北国の日本のはずれに住んでいる私でさえ存在を知っているんだから、もう「内輪」の範疇は超えていますよね。

また、なんとなく「コミュニティ」という言葉を使いましたけど、我々全てが包括されるようなコミュニティなんてどこにもないと思うんです。

普段はなんとなーく、「同じように男が(も)好き」という共通項を以て「こっちの人」という内輪を作っていますが、美醜や体型、学力、貧富などが異なる時点で内輪にはなりきれません。

それについては昔から変わらないはず。

 

ただ、今はバーへ飲みに行かなくても、例の暗いところへ行かなくても、「こっちの人」と出会うことが非常に容易になり、

テレビでもストレートがオツな場所としてゲイタウンへ飲みに繰り出す、なんてことも頻繁に見られるようになっている気がするし、

より一層、「内輪」という概念が変容しているのだと感じます。

 

基本的にずっと「外側」を向いていて、時折「内輪」に混ざる。そんな人もいれば、どっぷり「内輪」にしか居ない人もいる。

昔であれば関わり合いが希薄だった両者も、SNS等で簡単に互いの意見に触れる事が出来ます。

だから今は「内輪」のようなものの中ででも、内と外みたいな構図が出来ているように見えます。

 

今回以外にも、公道にブル一シート敷いたとか、新しくなった公園が速攻で夜間閉鎖されたとか、それらも漠然と通じているような気もします。

 

クローゼットなのでゲイタウンにストレートが大挙することに若干抵抗があるのは事実ですし、よくオネ工タレントが「そこまで言うな」的な情報をテレビで吹聴することにも抵抗があります。保守的なので。

でも、同性でもパートナーとしての権利を認めようとか、思春期の教育の中で性的 少数者について触れようとか、ここ数年でちょっと驚くくらい世間への関心を引く事柄が出てきているのも事実でしょう。

 

この変容し始めた「内輪」、それから「内輪」と「外」で生じる摩擦。

とても難しいことだけれど、それらについて考えていたいと思いました。