ただのにっき

ライハのブログ

お好み焼きの焼き方は、高校で習う


日どうしてもお好み焼きが食べたくて、風月に行ってきた。

風月は自分で作るタイプのお店。
お好み焼きの作り方っていつも不安になるけど、今回はソツなく作り上げられて、ソースもじんわり焦がし美味い状態に出来た。
最近自宅でお好み焼き作りにハマってミックス粉で作ったり、今年になって友人とお好み焼き食べに行ったりしてたからかも。

平日の夕飯には少し早い時間。
店内には友だちやらカップルやらの高校生ばかりだった。

豚餅チーズを頬張りながら、世間一般の人たちは、お好み焼きの焼き方を高校生のうちに会得するものなのだなあ、としみじみ思った。

そんなことを思ったから、綺麗に出来上がったお好み焼きを思い返し、ああ、ようやく世間に追いついたのかなあ、なんて考えた。多分まだ周回遅れだろうけど。

 

社会性において、人より遅れてるって気持ちが前からあって、人間関係の構築だとか、会社内での建前の関係性を維持することとか、これまでの経験不足がダイレクトに響いている。

 

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して思い返してみたら、何もないかと思えた学生時代にも、お好み焼きに関する思い出があった。

 

大学1年の頃、サークル仲間と一度だけお好み焼き屋に行った。
その時に鍋奉行ならぬ「お好み焼き奉行」がいて、お餅を懸命に切り分けたり、温度調整や氷で鉄板を掃除したり、お好み焼き1枚にかける熱量がとてつもなくて、下手したらウザがられるくらいのうんちくだった。

正直その友人は我が強くて苦手だったし、周りからもあまり好かれないんだろうなって思ってた。

だけど違った。
それが分かったのは2年になって新歓をやってから。

下級生にも積極的に絡んで盛り立てて、ひょっとしたらウザくなり得る「熱量」を、上手いこと面白い方へ落とし込んでいた。
熱量が人を惹きつけるものになって、自分をどんどん変えていってるのがわかった。

そしてそれはどうやっても私には出来ないんだということも分かっていた。

結局、サークルは2年の途中でフェードアウトしてしまった。

それ以来、誰とも連絡をとっていない。名前すら忘れてしまいそう。
(それと前後して、私の「こっち」の人との関わり合いが始まった訳なんだけど、これはまたのお話に。)

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ま振り返れば、とてもハードルの低い所で悩んでいたなと感じる事が沢山ある。

現在になってようやく「当時のみんなの標準」まで上がってきた感じ。

遅れを取り返すのは本当に大変。

 

だけど、それぞれ直面した悩みは、

自分にとっては然るべき時にぶつかって、

会得してきたものも、然るべき時に会得してきたんだなあと思うのです。

 

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近は飲みに出たり、友人と遊んだりする休日がすごく楽しい。
会社でもプライベートでも、少しは育んでいけてるのかなって。

ここ数日「人間関係は使い捨てじゃないんだぞ、お前」って言い聞かせている。
サークルもそうだけど、過去のあらゆる段階で、人間関係を切り捨ててここまで生きてきた。

 

気に食わなければさようなら

気まずくなったらさようなら

さよならしたらさようなら

・・・それっていかんよね。

 

けれども、全ての人に同じ熱量で接することは出来ないよね。

 

難しいね。